記憶の喪失感 2005年1月15日

 藤原 薫

 5年ほど前に妻と一緒にハワイにあるカウアイ島を訪れた。カウアイ島へは新婚旅行以来で実に20年ぶりであった。カウアイ島は賑やかなオアフ島とは風情がちがって、自然に恵まれ、何もせずにゆったりと時を過ごすことのできる所である。それがカウアイ島を再び訪ねた理由の一つであったが、一番の理由は、前に泊まったホテルは決して高級なホテルではなかったけれど、周辺の木々草花をうまく取り込んだ魅力的な造りとなっており大変気に入っていたことである。もう一度それを見てみたかった。

 いざ旅行を計画するためにガイドブックを調べたが、どうもお目当てのホテルが見つからない。時間をかけていろいろ調べてみると、ホテルは台風で大被害を受けたため、数年前に再建したということがわかった。大被害を受けたとはいえ、全体の雰囲気は残されているだろうと考えて同じホテルに泊まることにした。空港からはレンタカーで向かった。道すがら妻はポイプの並木道を最初に思い出した。私はわくわくしながら車を運転していたのだが、ホテルに近づいても一向に自分の記憶を呼び戻すものが見えてこない。ホテルに着いてから周辺を歩いても何も見つからない。とても落ち着かない気分になった。これが記憶の喪失感というものであろうか。大切な記憶が消されたという気分である。なぜ、跡形もなく建物を完全に作り変えてしまったのだろう。リゾート地に対して、このような気持ちを抱くのは筋違いかもしれないが、デザインや風景の一部でも残せなかったのか。旅行から戻ってからも、ずっとこのことを考えた。ヨーロッパを旅行した時に感じる、なぜか落ち着いた気分というのは時代を超えて存在しつづけた建築物や並木道つまり街並みがもたらすのではないか、そしてそれは暮らす上でとても大切なことだとの考えに到った。

 私は長らく東京に住んでいたので、「記憶の喪失感」というものに遭遇することはなかった。大都市に住んでいれば,そんなことを考える必要もなかった。ただただ、毎日が進歩・変化である。地方都市でも古い歴史のある建物が壊され、どこにでも立っているような似たような建物で埋め尽くされて行く。どこの都市も同じように見えてくる。やはり人々の記憶に残る建物は何世代にも渡って大事に使って行くべきではないのか。また、新しく作るものは長く使用されることを前提としたものにすべきではないのか。老若を問わず同じ記憶を共有しながら暮らすことができる、というのが街には不可欠ではないかという思いがどんどん強くなって行く。そのためには住環境を守る住民の意識の向上とともに税制まで踏み込んだ行政システム造りが必要である。(住環境を守るということにおいて、後にボルダ-市を訪れた時に様々な示唆を与えられた。)

 自分自身が年老いた時に自分の記憶の原点となっている建物や風景が何一つなくなってしまったら、きっと自分の居場所がないと感じて寂しく思うことであろう。そうであってはならないと思う。人間は理性だけで生きているわけではないのだから。


(補足)
 航空機突入テロで世界貿易センタービルが一瞬に崩壊してなくなってしまったが、あのビルにいろいろな思い出のある人々は記憶の喪失感というものを強く感じたに違いないと思う。

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