随想ブリューゲル(2) プラハのブリューゲル 2014年11月27日

幸福 輝(国立西洋美術館)

 1990年、国立西洋美術館で「ブリューゲルとネーデルラント風景画」という展覧会が開かれた。ブリューゲルの《干草の収穫》を中心に、プラハ国立美術館所蔵の風景画58点から構成された小規模な展覧会だったが、日本でブリューゲルが展示されるのは初めてのことでもあり、30万人を超える来館者があった。自分が企画した展覧会が興行的成功を収めるのは嬉しい。しかし、この展覧会は筆者にとってそれ以上の意味があった。展覧会の意義や美術館の役割などさまざまなことを考える機会を与えてくれた点において、この展覧会は筆者にとって忘れられないものとなった。だから、筆者にとってプラハはブリューゲルの町であると同時に、感謝しなければならない町でもある。観光客で溢れる現在のプラハとは違い、展覧会の準備のために訪れた共産主義時代のプラハは人通りも少なく、どことなく重苦しい雰囲気だった。最終の出品リストを確定するために再訪した時、今度はデモの人々が町に溢れ、プラハ市内は騒然としていた。政権が倒れたのは、その数か月後だったように記憶する。

 プラハ国立美術館に所蔵されていたブリューゲルの代表作《干草の収穫》(東京に貸し出された時の所有者はプラハ国立美術館だったが、ビロード革命後、本来の所有者であるロブコヴィッツ家に返却された)が動くかもしれないという話が飛び込んできた時、筆者は半信半疑だった。ブリューゲルの絵画は板絵であり、板絵の貸出は原則としておこなわないというのが国際的な習慣だからである。


ブリューゲル《干草の収穫》(1565年)
プラハ、ロブコヴィッツ宮殿

フランドル地方では良質のオーク(樫)材が量産され、古くから絵画には板が使われた。西洋絵画はカンヴァス(亜麻布)が一般的だが、これは16世紀から徐々に普及していくもので、それ以前は専ら板絵だった。ヤン・ファン・エイクのすべては板絵であり、ブリューゲルの場合もほとんどがそうである。17世紀になるとこの地方でもカンヴァスの割合が増えていくが、それでも板絵の需要は多く、ルーベンスでは三分の一、レンブラントでも五分の一程度は板絵である。堅牢ではあるが温湿度の変化に脆い板絵は、輸送には向かない。小さな板絵ならまだしも、ブリューゲルの《干草の収穫》のような重要かつ大作(120x160cm)の移動は前代未聞のことだったのである。だから、これは文化省と美術館の幹部だけが承知している話で、実現のためには関係者が納得するような展覧会のコンセプトが必要なことと短期間で契約しなければならないことが告げられた。冷静に考えれば、先方の政治的混乱に乗じたような企画だったわけで、釈然としない部分がないとはいえない。とはいえ、すべては偶然のことで、変則的な交渉がおこなわれたわけではない。貸し出されるものの稀少性が高ければ高いほど借り手を興奮させるのは、貸借の常でもある。

《干草の収穫》は《雪の狩人》などととともに、いわゆる「月暦画連作」に属す作品のひとつである。現在、ウィーンに3点、ニューヨークとプラハに各1点、合計5点が残されているブリューゲルの月暦画は、人々の営みをフランドルの季節の移り変わりの中に描いたこの画家の代表作である。おそらく、もともとは6点から構成され、春を描いた作品が失われたのだろうと推測されている。長く共産圏に所蔵され、西側の研究者は見ることができなかったこともあり、プラハ作品が東京で公開されることには大きな意味があった。ブリューゲルのこの作品を中心にした展覧会を考えた時、すぐに思いついたのが「風景画家ブリューゲル」をテーマにすることだった。《干草の収穫》を中心に、15世紀から17世紀までのオランダ・フランドル風景画の歴史を通観すること、あまり知られていないブリューゲルの時代のフランドル風景画の意義と魅力を伝えるような展覧会にすることを提案したのである。同展にはブリューゲルに先行する16世紀前半のヘリ・メット・デ・ブレスの代表作も展示され(この画家の作品が日本で展示されたのも、この作品が最初だったと思う)、まるで中国の山水画に登場するような、異様な山岳風景を得意にしたこの画家の広大な風景描写も話題になった。


ヘリ・メット・デ・ブレス《鍛冶場のある風景》
プラハ国立美術館

 西洋絵画の歴史では、17世紀オランダではじめて純粋な風景画が生まれたとされている。プロテスタントの商業国家として未曾有の成功をおさめたオランダ(鎖国時代の日本にまで同国の東インド会社がやってきたことを思い出そう)では、身のまわりの風土や風俗が描かれるようになった。その中心にあったのが風景画である。こうして、ヨーロッパ風景画は17世紀オランダで一新された。「変革」にこそ価値があると考えがちなわれわれは、「変革」以外には冷淡である。かくして、17世紀オランダ風景画こそが「変革」であり、それに先行するブリューゲルの時代の風景画は過渡期として低く見られてきた。しかし、16世紀フランドル風景画も、実は、大きな「変革」だった。16世紀フランドル風景画は、しばしば「世界風景」と呼ばれる。罪深い人間が暮らす世界の表象として、神がつくった地上のあらゆる景観を描いた風景描写が16世紀フランドル風景画である。それは、現実観察に基礎を置いた17世紀オランダ風景画とは異なる世界観から生まれたものだった。しかし、風景描写が画面全体に広がるような絵画を風景画と呼ぶのなら、それは間違いなく16世紀フランドル絵画において生まれたのである。宗教性が強く、近代的風景画を見慣れた目には不自然な景観に映る。しかし、明らかにそれは風景画であり、「変革」であった。

こうして、ブリューゲルの時代の風景画は筆者の研究テーマのひとつになった。プリンストン大学でおこなわれたヘリ・メット・デ・ブレスに関する国際シンポジウム(1996年)での研究発表や、ネーデルラントとは異なるもうひとつの風景画の系譜を辿った「クロード・ロランと理想風景」という展覧会(1998年)の企画も、このプラハの展覧会が出発点だった。さらに、この展覧会にはもうひとつの後日譚がある。2004年、ウィーン美術史美術館でフランドル風景画展が開催された。ブリューゲルの傑作を何点も所蔵している美術館での展覧会である。東京で筆者が企画したプラハ展とは比べ物にならない充実ぶりを誇っていたが、展覧会の趣旨そのものは10年以上も前に東京で開かれたプラハ展の延長上にあるものだった。ウィーン展の企画者がどの程度東京展を参考にしたのかはわからない。しかし、ウィーン展のカタログには “Akira KOFUKU” という名前とともに “Bruegel and Netherlandish Landscape Painting, Tokyo 1990” と東京展が記載されていた。ちょっぴり嬉しくなった筆者は、颯爽と(少なくとも、本人はそのつもりで)重い扉を開けてウィーン美術史美術館を後にしたのだった。

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