故郷を襲った東日本大震災 2012年3月20日

藤原 薫

いきなり強い揺れが建物を襲ってきた。

所は山形県北部にある戸沢村中央公民館、時は2011年3月11日14時46分。ちょうど設計コンペ当選の連絡を受けたばかりの戸沢村中学校改築の件で、小野教育長に挨拶し担当課と最初の打ち合わせをしていた時のことである。矢口課長の冷静な誘導で耐震補強したばかりの隣接の体育館へ皆で移動し、地震がおさまるのをじっと待った。体育館のトラス梁のボルトに滑りが起きているのであろうか、不気味な金属音が時折鳴り響く。

なかなかおさまらない長い揺れに私は宮城県沖地震がついにやってきたと思った。今後30年間で98%の発生確率、マグニチュードが7.5程度の大きさであるとして報道された大地震である。到来すれば宮城県では震度6強、山形県では震度5弱から5強と私は推測していた。当然、揺れは第一波でおさまるだろうと考えていたが、続けざまに2度目の大きな揺れが始まり、更に3度目の大きな揺れが襲ってきた。これは異常な大地震だ、とんでもない大地震が起きたと確信したが、現実のものとしてすぐには受け入れられなかった。いつ終わるとも知れない揺れが続くというのは、えも言われぬ恐怖である。

打ち合わせをしていた会議室に戻り、テレビをつけて実況放送を見た。目に飛び込んできたのは仙台市を襲う津波の様子である。津波を逃れるように車が避難していたが、津波の速度がはやく、車が津波に飲み込まれるのは時間の問題に見えた。大地震が起きた後に津波が来るという考えは私の頭から抜け落ちていた。小さい時から母に田舎を襲ってきた津波の話をよく聞かされていたのにである。テレビでは私の出身地福島県いわき市の小名浜港が津波に襲われ、たくさんのコンテナが流されていくのが映し出された。当初の津波の高さの予測は3m、時間が経つごとに津波の予測値が大きくなっていき最後には高さ10mとなった。

私が生まれた田舎の住所はいわき市久ノ浜町江之網であり、もともと漁港として栄えた四倉町と久ノ浜町のちょうど境の所にある。すぐ目の前が海である。私の家は海抜10m程度の位置にあり、少々の津波なら山のほうへ少し逃げれば津波は免れる。

自宅からすぐの国道6号線、左側が海、右手が住宅 自宅から約50mのいわき蟹洗い温泉の被害

田舎には足が少し不自由になった高齢の母が一人で住んでいる。母に何度も電話をするが、通じない。焦る。阪神淡路大震災の時に役に立ったと言われた携帯電話も全く通じない。とにかく、高台にみんなと一緒に避難してくれれば無事なはずだと自分に言い聞かせた。

小野教育長から明るいうちに帰ったほうがよいという忠告があり、早速車に乗り込んで自宅のある山形市へ急いだ。戸沢村では点いていた電気は山形市へ進むうちに周りから消え、真っ暗やみの道路を信号機が機能しない中進んで行った。車の渋滞が起こり、気を抜くと即事故が起きる状況であった。

やっとの思いで自宅にたどり着き、妻に母の安否を確認した。東京に住む娘が会社から何度も田舎に電話をかけて母と連絡がとれたとのこと、本当にほっとした。電話の接続は東京方面からのほうがよかったらしい。母は自宅から高台にある地域の集会施設に避難、数日後に隣町の四倉高校に避難、更に予想もしなかった原発事故の影響でより遠い内郷の公民館へと移ることを余儀なくされた。久ノ浜町は原発30km圏内だったのである。

母とやっと電話連絡が取れ、向かいの漁師の健ちゃんが津波に飲まれて行方不明だとのこと、第一波の津波が引いた後に保有する小型船の様子を確認するためにみんなの説得を振り切って海に行き、そのまま帰らぬ人になったと聞かされた。長靴だけが見つかった。

母は87才と高齢の上、数年前から身体に軽い障害を持っているので、避難先で体力が持つかどうか心配であった。

そのような中、いろいろな方々の好意の連鎖により母は姉のいる東京へ3月19日に無事脱出することができた。私の幼なじみの富田正子さんと彼女の友人、橋本ひで子さんの連携により母は臨時の高速バス第一号に乗り、東京駅八重洲で待つ姉の出迎えを受けることができた。津波と原発事故の混乱の中、最初の臨時バスに乗せてくれた橋本さんに心から感謝する。彼女のお兄さんが津波で行方不明という状況の中、母を自宅で親切に世話をし、母の代わりに臨時バスの切符を買うのに長時間並んでくれたと聞いている。言葉では言い表せない人の優しさと強さを感じる。

現在、母は姉のところで震災後1年間暮しているが、この4月には田舎に帰る予定である。やはり、一人暮らしが過ごしやすいという。幼少の頃から苦労した母には残りの人生を穏やかに過ごしてほしいと願うばかりである。そして、わが故郷、久ノ浜町と四倉町の一日も早い復興を祈る。

« »